持木ユリイカです。

ご自愛強めのおうち暮らし

はじめまして、新しいこと。

「はじめて」が好きである。


 人生はじめての経験。初めての場所。初めてのお店、初めて会う相手(もちろん嫌なやつもいる)


人はそれぞれ、自分に合った刺激を定期的に受けないと魂の死んでしまう生き物だと思うが、私の場合、新しいことをすることなのである。


とある喫茶店にはじめて入った。


ふだん行かない場所に行くと頭の中の妄想がうまいこと合成されてナイスアイディアが浮かんだりするし、


後ろの席に座ったヨッボヨボのおばあちゃんが振り返りたくなるくらい素敵な台詞を吐いてくれたりするのである。


曰く「私たちは地球から月を見上げて満月や三日月やなどというけれど、月の方は常に丸いし、他の場所から見たら形違うのよね」(意訳


場所にはそれぞれの文化圏があり、それをふわっと撫でるように味わうことに興奮する。


なじみの場所も落ち着くが、はじめての場所は五感が冴え渡るので、新しい文化圏を享受しやすい。


多分私、室内の誂えよりも、玄関ドアの装飾にうっとりするタイプなんだと思われる。


とっくに捨てた処女に思い入れはないが、まだまだこの世に捨てていない○○処女がたんとあることを幸せに思いつつ。


つかの間の夏休み、明日はどんな「はじめて」を試そうか。

アイヌの暦

アイヌの暦の名称が素敵だ。

三月 祝い月
四月 鳥が出て鳴く月
五月 ひめいずいを採り始める月
六月 ひめいずいを盛んに採り始める月
七月 はまなすを採り始める月
八月 はまなすを盛んに採り始める月
九月 木ノ葉の初めて落ちる月
十月 木ノ葉が盛んに落ちる月
十一月 足の裏が冷たくなる月
十二月 たいまつで魚をとる月
一月 弓が折れるほど狩りをする月
二月 海が凍る月

アイヌのひとびとが住む極寒の地で
寒さが和らぐ三月が一年の始まりである。

素直に暖かくなったことにはしゃいで祝っている様子もかわいいし、
本格的に春が来たら鳥が鳴き始めることに喜びを感じるのもいい。

その後は食べ物に焦点があたる。
季節の変化と共に暮らせば、自然そうなるのであろう。
五月にひめいずい(ユリ科の植物)を採り始め、
六月は本腰をいれて収穫するのだ。

ちなみに花言葉は「飾らないうつくしさ」だそう。

厳しい冬に向かっていく様子を木ノ葉で感じ、足の裏で感じる。
十二月はきっと日も暮れるのが早く、たいまつに火を灯して、真っ暗な中で釣り。
一月は狩りをめっっっっちゃ頑張るんですね。

そして二月、海が凍る。おうちで暖かくして祝い月を待つのだ。

1年間、同じような睡眠食事仕事遊びのルーティンじゃなく、
あきらめる月もあれば、めっちゃ頑張る月もある。
天候・気候・その時々の環境の状況に合わせて態度を決める。

悪くない暮らし方だなぁと思う。

ずっと頑張るの無理だって。

気張って仕事がんがん進める月もあれば、
もうだめですーって布団と一体になる月もありますよ。

ばかみたいに恋に没頭する月もあれば、
1人でずっと本を読む月があったっていい。

例えば、

三月 新しいことに取り組む月
四月 花見で酒を飲みまくる月
五月 心地の良い友人に会う月
六月 珈琲淹れて読書する月
七月 冷房の効いた部屋で映画を観始める月
八月 冷房の効いた部屋で映画を盛んに観る月
九月 恋に初めて落ちる月
十月 恋に盛んに落ちる月
十一月 冬支度ついでに掃除したり模様替えしたりする月
十二月 帳尻合わせのように仕事する月
一月 ちんこが折れるほどセックスをする月
二月 祝い月(着床)


こういうときにどうしても下ネタに走る自分は嫌いではないので、
ほうっておいてください。

持木ユリイカでしたーー!!!

アラサーの方程式

ヘドウィグ&アングリーインチを見ていない人には申し訳ないが、今から物語の結論めいたものを言います。
人間はもともと二人で一つだったものが、半分に分かれてしまった。だからもう半分の片割れを探そうとしていた主人公、一人で一つだったんやわと気付きます。そして”明るい暗闇”のような空間に進んでいく。これが囚われていたものからの開放か、それとも生きる目的を失った絶望かは見る人によって、見るタイミング・心持ちによって変わるかなと思われる。それ以外の感想ももちろんあっていい。

欠乏は好き。

欠乏から物語も、気力も生まれると思う。
川上弘美の小説を最近読んでいるのだかれど、何かしら欠けている男性が必ず出てくる。自殺した小説家が名作を残したのも、欠乏から物語が生まれたからではなかろうか。


私の生まれ育ったところは田舎で、B.C(Before Christ)じゃなく B.A(Before Amazonね)に生まれたので、小さい時は、欲しいものはほぼほぼ手に入らなかった。
だから手芸を始めたのだし、欠乏故に手に入れたのがお裁縫の技術である。上手くはなくとも。
 
満たされていると、欲望も行動も生まれない。
 
アラサーでペットを飼った女性は結婚しにくくなるというのも、穴が埋められちゃうから。
ペットのホオミドリアカオウロコインコに一生懸命「おかえり」を教えているアラサーは、見ていて物悲しいけれども、物語の一場面にはなるよね。
 
質の悪いことに、そんなネタがある自分の生活を愛してしまっている。
欠乏から生まれた物語を好んだ末の袋小路。
 
欠乏→欠乏している自分気持ちいい→逆に満足→欠乏故の行動さえ起こさない。
 
これはある一人の独居アラサーの方程式。
世にも恐ろしい、独りよがりの円環。
 
悦にいるの楽しい~~~~!

シンプルな欲望とチューニングされた日々。

生きている。それだけで素晴らしい。
年間3万人自ら死を選ぶなかで、
なんとか自殺せずに日々の暮らしを続けているってだけで
頑張って生きていると認めてあげてほしい。

そんなに重い話ではない。

別府でこの夏開催されていたアートフェスは
腰の重い私も縁あって見に行った。

トキワデパートで行われていたインスタレーションが素晴らしかった。

元サラリーマンの哲学者という肩書で発表されていた”A”。
どんな人も毎朝チューニングして社会に臨んでいるという主張。

1人の男がひたすら声を出し、コードAに合うようチューニングするインスタレーション

昼食時と休憩時間をきっちり定めるサラリーマン気質に微笑みを誘われる。

社会のひずみ、表現しようぜ!

言葉にならないなら、態度で示そうよ♪

一度、素晴らしい生活をするためにすべきことをエクセルに書き出したことがある。
想像したより長いリストになった。

リストを眺めながら、おぞましい気持ちになった。

素敵な生活をするためにはこんなにTO DOリストが長くなるのかと。

あーしんど。

もう一度言おう。

あーしんど。

ビューティフルでワンダフルな生き方をしている人は
そうでない人に変なプレッシャーを与えてしまっているともいえる。

美味しいものはただただその場にいる人と享受せよ。
”美味しいね~”でええやんか
なぜFacebookで自慢する?
舌での感覚誰と共有できる?

チューニングしましょう。
目の前にいる人と楽しめばいいじゃない?
あなたの現実充実度なんか興味ない。

ただ、好きなひとと好きなものを食べたいだけ。

次帰省するのは葬式か結婚の挨拶なんではないか

先日、実に3年3ヶ月ぶりに島に帰省してきた。前回帰った時は25歳だったと思わず計算してしまい、私の意識は一瞬で遠く宇宙に誘われた。現実怖い。

帰省の感想としてはまず、実家のマイホームじゃない感がすごかった。当然だけど知らないものがたくさんあって、他人の家になっていた。10年も前に去った場所であるから当然なのだが。

マイホームをマイホームたらしめるものは、照度と匂いだと思っている。空間認識は目と鼻でなされる。耳もかもしれないけれど私耳悪い。引っ越しの際、何は無くともその2つさえ自分らしさを確保すれば落ち着く家になるので試してほしい。

光と匂いは10年も経てば変わる。もしくは記憶の彼方。

家族は予想通り父の背中は曲がり、母の白髪は増えていた。半分同じ遺伝子の母がいい感じにロマンスグレーになっていたのは嬉しい。私は銀髪でボブにしてミナペルホネンの洋服が似合うおばあちゃんになりたいんです。弟は声がかなり低くなり、姉は世話焼きになっていた。家族の姿や性質、関係性や距離感は細かくアップデートしないと変化に追いつけないよねー

ちょっと面白かったのは海までドライブに行った時、O型の父、私、弟はミナ貝を集めるのに夢中になりどこまでも岩場を進もうとしたが、A型の母と姉は家に早く帰る算段をつけようとしていたこと。さすが元狩猟民族であるO型の血は争えない。A型は管理型社会になじむね。血液型占い、嫌いじゃないのよ。

街は草が増えていた。管理しきれないのか公園も草ボーボー、憩いの場所で憩えない。昔畑だった場所が草原に変わったりしていた。大きな犬がいたはずの知人宅も鳴き声は聞こえず草に覆われる。こうやって街は大自然に還っていく。

もはや家も家族も街も観察する対象になっていた。居場所ではなく研究対象。フィールドワークしている気分であった。ただ、実家に甘えて研究熱心になることはなく怠惰の限りを尽くしたけどね。次女の甘え。

多分次回帰るのは5年後くらいじゃないかな。先祖にも犬の遺骨にも挨拶できたし。

 

ふるさとは遠きにありて想うもの。遠い場所から想ってます。

好みのタイプを聞かれたら「うーん、常識は1つじゃないってことを知ってる人かな」って答えていた面倒くさい私へ

今からどうでもいい話をします。
ヤナギブソンなら誰が興味あんねんって締めるような話ですが、ヤナギブソンは誰が興味あんねんって言った後に目の前の女の子に「めっちゃ興味ありますよ」とじっと目を見て言われたらどんな顔するんだろうか。ねえヤナギブソン

どうでもいい話なのでどうでもいい妄想から始まったのです。

わたし、出来事と時間を共に重ねる伴侶が欲しいと最近言い続けていますが、相手像がまったく想像ついていなかった。

欲しいものがはっきりしていたら見つかるのでは?でも服も不動産もあまりに明確な希望があるとなかなか見つからないしあくまで方向性ってことなんですが。

今日イケメンシェフのいるトラットリアでワイングラスを傾けつつ思ったのだ。

私イケメンを避けるような人生を送ってきたんだけれど、それは顔の整った男性が嫌いなのではなく、顔の整った男性にありがちな性格が苦手なだけだったんだわ。

「飲食店やっても人から襲われたりしないだろうなぁ。いざとなったら包丁あるし」と言った私に「寸胴鍋の蓋なんか完全に盾ですからね」と蓋を誇らしげに掲げたシェフ。ああ好きやねんこういう返し。

ボケにはツッコミではない。ボケにはボケを!ハンムラビ法典

持ちうるボキャブラリーを投じてボケで返して欲しい。上塗りして欲しい。願わくば大量の語彙を隠し持っていて欲しい。

イケメンでも好きな中身の人はいるもんだと当たり前のことに気づいたって話。

子どもの頃から欲しいものが比較的手に入らなかった方なので(田舎+貧乏+ネットショッピングの無い時代)手に入らないものは最初から否定するに限るという悲しい思考回路を得てしまっていたのだ。

年齢を重ねるといいこともある。格好つけずに素直になれる。なぜなら格好つける方が格好悪いから。欲しいものはちゃんと欲しがろう。という気概。(都会+独身貴族+大検索時代)

ちなみにイケメンシェフはすでに素敵な家庭を築かれているので、欲しくはない。人の大事なものを欲しがってはいけない。私だってペットの小鳥たちを奪われたら嫌だもの。個々の想像力が安全で素敵な社会をつくるね。

そして同時に、私はシルエットがきれいな人が好きだと気づいた。顔よりもシルエットで好きになってきた気がする。イケメンでも不細工でもなんでもいいけれど、身体のバランスが悪い人はたぶん無理なんだ。

同じ世代の結婚して子どももいる女性はもっと重要なことを考えているんじゃないかなぁと自虐しつつ、欲しいものの方向性に自覚的になること必要なことだと思われた、夜。

今日のまとめ
★シルエットがきれいでボキャブラリーの豊富な男性探す。

今日のおまけ
アラサー版ABCD包囲網
A:Age(年齢)
B:Bank(貯金がねぇ)
C:Cat(猫飼ったら終わりや)
D:DEBU(お腹周りがやばい)